他人の失敗は性格のせい、自分の失敗は環境のせい
過ちを犯した人に対して、その人の人格を否定するべきではない。
また、その人の不幸を望む言葉や、命が尽きるよう願う言葉は放つべきではない。
死ねなんて言葉、軽々しく使うものではない。
人間は、みんないつか死ぬ。
不快な気持ちを抱いたのなら、単純な言葉で括ってしまわないで突き詰めていくことは自分のためになると思う。
本当に死んで欲しいわけじゃなくて、今後一切関わりたくないだけなこともあるでしょう。
その人個人が嫌なわけじゃなくて、その人の行為が嫌だったことに気付けば、
その行為に遭遇することを回避できる方法はないか、
似たようなことが起こらないようできることはないかと考えることができる。
命が尽きるよう願い続けていれば、人間には寿命がありますからいつかは叶うでしょうけど、
長い年月がかかると思います。
自分の人生の貴重な時間を、憎しみを抱え続けることで消費しない方がいい。
人生の貴重な時間は無限じゃないから、限りがあるから、もっと楽しいことに使いましょう。
他人の失敗は性格のせい、自分の失敗は環境のせいにしがちだといつか読んだ本に書いてあった。
他人が過ちを犯した時、批判する前に少し立ち止まって何か事情があったのかもしれないと想像してみることは必要だと思う。
短時間の行動のみで、その人の人格はわからない。
何を考えて何を思いその行動に至ったのか、心の中はわからない。
他人の過ちを声高に批判する人は、自分は同じ事をするわけがないと思っている。
だけど、未来のことはわからない。
自分や、自分の身近な人が同じ過ちを犯した時に、過去に自分が放った言葉はそのまま突き刺さる。
人は未来に対して不安を抱えている。
過去に対して罪悪感を抱いている。
他人を攻撃していれば、自分の中にある不安や罪悪感と向き合わないで済む。
向き合わなければ、少しの間、存在しないことにできる。
だけどなくなったわけじゃないから、なくなったと思ったそれを再び認識すると、
もっと目を背けたくなる。
他人への攻撃を強める。
攻撃する対象が、社会的に許されないことをしていれば堂々と攻撃できる。
攻撃する側も大勢になる。大勢の中の一人になれば、罪悪感をあまり感じずに攻撃ができる。
謝罪をしても許さないのは、まだ攻撃し続けたいから。
人々の不安を煽り、攻撃を正当化する。攻撃に加担するよう仕向ける。
不安を煽る人たちの言葉は疑ってかかった方がいい。
不安を煽ることで自分と同じ混乱に陥れたいか、
判断力を奪い自分の思う通りに動かしたいかのどちらかだから。