ツチダのエンピツ

ペンは剣より強いので

できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

小学生の頃、教会に通ったことがある。

別に親がクリスチャンだったわけではなく、ただ友達が行っているからという理由で、毎週日曜日に教会に通った。

聖書も賛美歌集も、持っていなくても教会で貸してくれる。

牧師様が聖書を読む。お祈りをする。それが終わると、教会の一室で子供たちだけで遊ぶ時間があった。12月にはクリスマス会が、夏休みにはお泊まり会があった。

 

同じクラスのNくんも日曜日に教会に通っていることに気付いたのは、しばらく経ってからだった。

Nくんとわたしたちは、学校で特に親しくしているわけではなかった。

だけど、教会の後にはおしゃべりをしたり遊んだりするようになった。

学校では相変わらず親しく会話をすることはなかったけれど。

 

それから数年経って、わたしはいつの間にか教会に足を運ばなくなった。

 

更に歳月が流れ、わたしたちは中学生になった。

中学生になったわたしは、悪質ないじめを受けていた。悪質じゃないいじめなんてないか。いじめはみんな悪質だ。

学年中の男子全員がわたしをバイキン扱いし、いじめの中心にいた男子たちはすれ違いざまに毎日飽きもせずにわたしを罵倒した。

わたしはバイキンなので、わたしに触れたりすると誰かに移さないといけない。

わざとわたしにぶつかってきておいてツチダ菌が移ったなどと言いながら他人に触り、またその人も他に移すというような鬼ごっこのような愉快な遊びをしていた。

もちろん、わたしは全然愉快じゃなかったけど。

死ねとかブスとか気持ち悪いとか、あらゆる悪口をぶつけられながらわたしは毎日学校に通った。

 

中学二年の夏のこと。

林間学校があった。

林間学校では、肝試しがあった。

夜、男女ペアで手を繋いで目的地まで歩く。男女のペアは、くじびきで決める。

 

くじを引く前から、男子たちは「ツチダとペアになるやつカワイソウ」「そんなこと言ってお前がなったらどうするんだよ」と楽しそうに大きな声で話していた。

わたしによく聞こえるように。

 

くじ引きの結果、わたしとペアになったのはNくんだった。

わたしが教会に行かなくなってから小学校卒業までも特に教室内では会話をすることはなかったし、中学生になってもそれは変わらなかった。

もっともわたしは学年の全男子からバイキン扱いをされる身になってしまったので、わたしと会話をする男子などいなかったのだけれど。

 

男子たちはNくんのことを「カワイソウ」「どうするんだろう」「俺だったら絶対無理だわ」などと笑った。

わたしはいたたまれなくなってうつむいた。

泣きたかった。いなくなりたかった。カワイソウなのはわたしの方なのに。

何で林間学校なんてあるんだろう。何で肝試しなんてするんだろう。 

 

肝試しでわたしたちの番が来た。

後ろではやし立てる男子の声が耳障りだった。どうしたらいいのかわからなかった。

Nくんはそんな声など聞こえないように、わたしの手を握って堂々と歩き始めた。

後ろで楽しそうに笑っていた男子たちの笑い声はぴたっと止まった。

それ以来、いじめもなくなりわたしは卒業まで楽しく過ごしました。

めでたしめでたし。

 

 

 

 

なんて、現実はうまくいきませんので。

 

肝試しでわたしたちの番が来ると、Nくんは自分の着ていた薄手のパーカーを脱いで手にぐるぐると巻き、わたしに直接触れずに手をつなげるよう防御したのでした。

パーカーでぐるぐる巻きにした手をおずおずとわたしに差し出した。

Nくんはわたしに直接触れないことでツチダ菌に汚染されることを避け、思春期のわたしの心の傷を広げ、いじめは卒業まで続いた。これが現実。

 

けれど、誰がNくんを責められるでしょう。

自分がいじめの標的にならないためには、いじめに同調するしかなかった。

たぶん、学年の男子のほとんどがそうだった。

Nくんはおとなしい子だったし、いじめの中心にいた人間たちの影響力は大きく加担する人間があまりに多すぎた。

 

あの場にいて、Nくんの立場でわたしの手を握って歩き出してくれる人などいなかったと思う。

大人になってから親しくなった男の人に対して「この人が中学の時わたしと同級生だったら、いじめに加担しただろうか」と考えることがある。

中心にいて楽しそうに笑っていたグループに所属したであろう人とは、今も親しくなれないなと思う。

女子でも一部の子は男子に媚びるためにいじめに加担することがあって、そういうタイプの女子も苦手だなと思う。

(しかもそういう女子に限ってかつては「男子の言うことなんて気にしない方がいいよ」などとわたしに慰めの言葉をかけていたりするのです。恐ろしい)

 

いじめがなぜなくならないかと言ったら、楽しいからです。

いじめはよくない、いじめカッコワルイなんて言っても、いじめをしている人には届かない。

いじめじゃないから。楽しい遊びの一つだから。

 

それぞれが、自分の楽しいと思うことを楽しんで、自分の問題ときちんと向き合って生きていけたらいじめはなくなると思う。

他人を攻撃している暇なんてなくなるし、そんなことより楽しいことがあることがわかるはずだ。

自分の問題から目をそらしてどこかで発散しようとするから、他人への攻撃になる。

あの頃はそんなことわからなかったけれど。

いじめの中心にいた人たちはカワイソウな人たちだ。

 

今のわたしは大人になったから、いやな人たちのいる場所から逃げ出すことができる。

小学生の時も中学生の時も、学校も済むところも自分では選べなかった。

何一つ思い通りにできなかった。

今はどこに引っ越したって自由。

どこで働いたって自由。

大人は最高。

 

 

身近な人が聖書をくれた。

その人はクリスチャンでも何でもないけど、聖書をくれた。

なので最後に聖書の言葉を一部抜粋します。

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」

 

聖書を読んだからNくんを思い出した。

Nくんは幸せに暮らしているだろうか。

きっと肝試しの夜のことなど覚えてはいないでしょう。

わたしのことも。

 

いじめの中心にいた人たちは幸せに暮らしているだろうか。

 わたしにはもう、関係のないこと。

わたしに関係のないところで勝手に幸せに暮らしてくれればいい。

 

聖書にはこうも書いてあった。

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

 

わたしはわたしで平和に幸せに暮らしておりますので。