ツチダのエンピツ

ペンは剣より強いので

リンゴは本当に赤いのか

わたしの耳は、ちゃんと音を聴いていない。

ライブに行くといつも思う。

 

聴力に問題はない。

耳は正常に機能している。

 

ただ、音を聴きたい時にちゃんと音を聴いていない。

 

耳から入ってその後、きちんとわたしの中で受けとめてくれない。

集中力がないのかもしれない。

あるいは、頭の中がうるさすぎて外の音が入る余地がないのかもしれない。

音楽を聴いていても、それから連想されることが頭に浮かんで、勝手に会話のシミュレーションを始めたりする。

これがとてもうるさい。

もっと聴きたいのに。

もっと観たいのに。

思ったように聴こえなくて、思ったように見えない。

世界が遠い。

 

そういう時、わたしはとても閉じている人間だと思う。

外から受ける感覚に対して、反応が鈍い。

感覚がわたしの中に入る通り道があるとしたら、狭くて横ばいでじりじり進まないといけないと思う。

感覚の通り道をもっと広げて、外からの刺激は入ってくる時に全速力で走り抜けて欲しい。

拡張工事をしなくては。

わたしの耳は、もっと音を聴けるはずだから。

もっと外の世界に感覚を開けたら、今の百倍楽しい。

今のわたしは、自ら薄暗い洞窟にうずくまって「太陽の光が差し込まない、暗い」と文句を言っているようなものだ。

外には燦々と太陽が照っているというのに。

 

こうやって考えていてふと気付いてしまったけれど、他の人がどんな風に音を聴いているのかわたしは知ることはできない。

他の人は、ちゃんと聴いているはずだとわたしは思う。だけど、それを確かめるすべはない。

もしかしたら、他の人もみんなわたしと同じように聞こえているのかもしれない。だけどやっぱり、それを確かめるすべはない。

 

わたしに音がどう聞こえているか、他の人にはわからない。

他の人に音がどう聞こえているか、わたしにはわからない。

見えているものも同様で、絶対に同じものを見ているとは限らない。

わたしが赤だと思っているものと他の人が赤だと思っているものは違う色かもしれない。

 

わたしには青く見えているものでも、赤だと教われば「これは赤」と覚えるだろうし、赤と説明することで他の人に伝わるのならば、わたしには青く見えていても赤だと言い続けるし、それがわたしにとっての赤になる。

他人にも世界が同じように見えているとは限らない。

 

街路樹も、アジサイも、ハクチョウゲも、空の色も。

人が造ったものだってそう。この道路も、お店も、歩道橋も、信号も。

本当は何一つ、他人と全く同じに見えている確証なんてない。

同じものが見えていないのに、共同作業で一つのものを造りあげているとしたら、それはそれで面白いけれど。

もしかしたら、とんでもない化物に見えているのに、それがずっと当たり前だったから平気な顔をしている人もいるのかもしれない。

ある日、突然見えるものが変わったら大騒ぎするだろうけど、物心ついた時からずっと同じように見えていたら、周りも平気な顔でいるしそれが当たり前なんだろうなって感じるのでしょう。

 

考えにしたってそうで。

自分の常識が他人にとっても常識とは限らない。

「こんなの普通でしょ?」という押しつけが、どれだけ人を傷つけるか。

 

世界は必ずしも同じには見えていない。

物理的には、たぶん大部分の人が同じものを見ているのだろうけど。

目に見えないことは、同じものを見ている人の方が少ない。

常識とか、正しさとか、幸せとか。

 

自分と他人は、物理的なものでさえ違うものを見ているのかもしれないと考えることで、他人の視点を尊重できるかもしれない。

 

わたしの思うリンゴの赤と、あなたの思うリンゴの赤は、本当に同じ色でしょうか?