ツチダのエンピツ

ペンは剣より強いので

おばあちゃんのお葬式

子供の頃「父方の祖父母」と「母方の祖父母」という概念が全く理解できなかった。

わたしが生まれた頃に存命だったのは母方の祖母だけで、その祖母ですら遠く北陸に暮らしていたし、両親には盆暮れ正月に帰省する習慣がないものだから、初めて会ったのは小学校一年生の夏。

祖母が末期がんで先が長くないとわかったときだった。

 

その時点で、わたしにはおばあちゃんと言えばその人しか存在しなかった。

おばあちゃんが親の親であることは理解していた。

理解していたけれど、父方の祖父母の話を一回も聞いたことがなかったものだから、そのおばあちゃんは父にとっても実の母親なのだと思っていた。

だから、祖母に会うために夏休みに母と二人、上野発の夜行列車に乗ったわたしは、父が乗車しなかったので「どうしておとうさんはいかないの?」と言ったのだった。

母は「お父さんはお仕事があるからね」と答えた。

わたしがそんな思い違いをしていることを知らないから。

だけどわたしは、その疑問を口にするだけの言葉を知らなかった。

 

ちなみに、わたしが「父方の祖父母」「母方の祖父母」という概念を明確に理解したのは小学校三年生になってからだ。

小学校三年生の時に同じクラスに転校してきた女の子の家は母子家庭で、仲良くなると「お父さんとお母さんは仲が悪くて離婚したんじゃなくて、お父さんの母親とお母さんの仲がよくなくて、それで離婚したんだよ」と教えてくれた。

そこでやっとわたしは「お父さんにも、お父さんとお母さんがいるんだ(いたんだ)」と理解した。

それまでは漠然とやり過ごしてきたことだったけれど、やっと腑に落ちた。

 

祖父母と交流がなかった子供はアイデンティティを確立しづらいので、親は積極的に子供を祖父母と交流させるとよいとずっと前に何かで読んだ。

祖父母は自分の生まれてきたルーツだから、そこをよく知らないと自分が何者か不安に陥りやすい。

祖父母が既に亡くなっている場合は、親が祖父母の思い出話をするだけでも十分な効果が得られるとか。

 

 

さて、話を戻して末期がんの祖母を見舞った小学校一年生の夏。

母の故郷には数週間滞在して、東京に戻った。

夜、父と母と三人で夕飯を食べていると電話が鳴って、祖母の死が知らされた。

わたしたちは再び母の故郷へと旅立った。今度は喪服をたずさえて。

 

祖母の葬式の時、わたしは号泣した。

初めて身内が死んだから泣いているのだと母は思ったようだけれど、実際は母親を亡くした母に感情移入して泣いていた。もし自分のお母さんが死んだら、と考えたらとても悲しかった。

生前の祖母にかけられた言葉は「その子、誰?」の一言だけだったので、正直何の思い入れもなかった。ただ、泣いていると「おばあちゃんが死んだから悲しいのね」と言われるのでそういうことにして泣いていた。

 

あとは、初めて見る死体が怖かったから。

初めて見るお葬式が怖かったから。

でも、火葬場ではお骨を拾って骨壺に入れた。子供は拾わないでくださいって注意されて、もう拾っちゃったねとお母さんとくすくす笑いあった。

 

祖母との思い出はないけれど、お葬式や荼毘に付される姿を通して、わたしは何かを受け取ったと思う。

 

祖母が死んだ後、母の実家の裏山を母と2人で散策した。

それは見事な大きな大きな百合の花が咲いていた。

母が「おばあちゃんが好きな花だった」と言うので供えようと数本折って持ち帰った。

花粉が服に付くと落ちないから気をつけなさいねと母は言った。

 

この季節は百合の花が咲くから、あの夏を思い出す。